最果タヒ

大森さんの歌を初めて聴いたとき、いまこの地上のどこかで呼吸をしている人の声だと思った。「東京都今日と今日東京」の瞬間に、聞こえる彼女の声は、あのころから今までを駆け抜けてきたその息が声とともに歌になっていて、これまでの時間、彼女の隣を走ってきたみたいに私の心臓も破裂しそうになった。
 昔、大森さんと対談していた時、東京でなくても仕事はできるし、宇宙ステーションでだってやろうと思えばできてしまう、という話をしたことを思い出していた。どうして、東京は東京なのだろう。もういいんじゃないか、と思うこともある。東京を歩いていると、もういいじゃないか、みんな、解散しようよ、なんて言いたくなる。本当は、誰も、東京でなくてはいけない理由なんて知らないのかもしれない。なんにもなくて、理由なんてなくて、でも、だからこそ、この街は特別な場所になったのかもしれない。そんな気もしている。
 生きてきたぶんだけ、選択してきたつもりでいるね。暮らす場所、仕事、友人、すべて自分が決めてきたつもりでいる。失敗しても、不運があっても、だからなんとか耐えられた、全部私のせいだろう、私がどこかでしくったんだろう、そういう風に納得すれば、まだこの世界で、この時代で、生きていける気がしていた。楽でもあったんだ。けれど実際は、何にも自分で選べてなどいない。選んだつもりになっただけだ、そんなふうに演出されてここまできただけだろう。無限の選択肢が目の前に並べられることなんてなく、いつだって誰かに絞り込まれた3、4個の選択肢から選ぶしかなかった。私が、私を生きてきたつもりでいても、いろんなものがもう混ざりきっている。いつまで苦しさを自分だけのせいにするのだろう? 自分がもう自分だけのものじゃないということ、そこから、目をそらしても余計に息苦しくなるだけだった。
 東京には何にもない。何にもないせいで、自分が本当にこの街を選んだのか、あやふやになる。この街が、私を、呼んだのかもしれない。無駄に眩しくて無駄にカラフルで無駄にうるさい街の真ん中で、そう思うしかできない瞬間、私の手には何もないことが、やっと見えてくるんだ。「解放された」と、そのとき確かに感じるはずだった。この歌を、聴くあいだ、私はそのことをどうしようもなく思い出していた。